どう生きる?どう生かす?

子供たちへ


波打ち際で子供が遊ぶ。
寄せては返す波を感じながら、遊ぶ。
波の間隔や大きさが分かってくると、少しずつ沖へ行く。
突然大きな波が来て、ズボンが濡れる。
ズボンが濡れると、どうでも良くなって海に飛び込む…。
波にはウネリが混ざる。
打ち寄せる波で遊んでいる時は分からないが、膝下ぐらいまで入ると腰まで来る波がある事が分かるのである。
クルブシまでの波で遊ぶ人は、ウネリを一生感じる事は無いのかもしれない。
ウネリで溺れた人は、海を怖くなり、近づかなくなるのかもしれない。
一度、小さな船でウネリに乗ったとき、かなりの恐怖に襲われた事を覚えている。
逆にサーフィンを楽しむ人は、ウネリを求めるようになる。
好奇心から気象情報に詳しくなり、人によっては遠くの港のブイの波の周期と高さをチェックして、半日後の波を予想して待つようになる。


生き物が多様なように、人も産れながらに多様で、その上に様々な環境で時間を重ね、異なる行動選択を行なう。
当たり前だけれど、双子のように遺伝子が同じでも違う。
逆に、産れると、成長し、老いて死ぬように、同じ部分もある。

経験と思考が人の行動を形作る。
勉強や読書によって、人の考えた事を理解したように感じる。
道を歩くのと同じで、他人の思考をなぞる方が楽で早い場合が多い。
しかし、同じ本を読んでも、人によって違う考えを理解し、行動変容も異なることが多い。
言語は抽象度が高いため、受け取る側の幅が広いのである。
抽象度を下げた「コップ半分の水」でも、多いと感じる人もいれば、少ないと感じる人もいる。
さらに、同じ人でも、喉が渇いているのか、水を飲んだばかりなのか状況によって感じ方が異なる。
双方が理解している内容が違うと間違いになり、自分で自分の理解と異なる事はウソになる。
ほとんどの人が理解している算数の1+1=2という答えの方がめずらしい現象である。
小学校に入ると、めずらしいことが当たり前のように、自分の理解に○×をつけられる。
多くの場合、価値観の相違を嫌い、それを文化や礼と呼び、相手と異なると同じ空間にいることを避けたくなる。
色々と人とズレている私の場合は、人は根本的に違う事の方が多いと、感じている。
人それぞれが違う答えを持っていても、同じ答えでも、答えを持たなくても良いのである。
しかし、そんな私も多数の中年と同じように、家族がいて、サラリーマンをしている。
日本という国や会社の規則に従って、生活をしているのである。
制約と自由は相反するのかもしれないが、比較するものが無ければ感じないのだろう。
一夫一婦制の日本で主婦が不倫に憧れる。
昼のテレビは不倫のドラマやニュースで視聴率が取れるという統計がある。
教育で肉体や言語の暴力を禁止すると、マンガや小説やゲームでアンパンチ。
生き物を無駄に殺す痛みを知らないから、食べ物を残す。
毎日会社に行く生活をしていると、自由な生活をしている人に憧れる。
毎日自由な生活をしていると、予定を入れて何かをしたくなる。
綺麗な景色も見慣れると、何も感じなくなる。
久しぶりに論理的思考の合う友人に会い頭をグルグルさせる。
一緒にいた方も少し変わった方で楽しい時間を過ごさせて頂く。
私はいつもながら、違う見方が無いかと探して、結果、同調が遅かったり、反面教師にしていると感じさせるため、申し訳なく思う。
色々な事を思ったのだけれど、結局、自己を内省するしかない。
悲しみが少なく喜びが多い未来という目的があり、頑張り、学び、創造している人が好きなのである。
さて、自分の事を裏切らない行動をしよう。

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